Ⅲ.伊勢商人の系譜

Ⅲ.伊勢商人の系譜
江戸の商業界発展に貢献した伊勢商人

  江戸期の商業界で特異な地位を占めたのが伊勢商人でした。伊勢商人にも大別すると二種類あります。一つは伊勢湾に面した湊に発達した廻船問屋がそのまま貿易業者となって、日本各地はもちろん、さらに遠く海の彼方まで出かけていって、交易した商人であり、もう一つは陸路、近江の国から八風、千草の峠を越えて、伊勢路へとやってきた近江商人の流れです。

徳川家康に恩を売り特権を得て飛躍した角屋

 前者の代表が角屋七郎二郎です。彼は天正10年(1582年)、思いがけないことから徳川家康に恩を売ることになりました。それは当時、堺に旅行中だった家康が、たまたま明智光秀が起こした「本能寺の変」に遭遇。急ぎ三河へ帰ろうとした家康を白子の湊から無事に本国へ送り届けたことです。 
 この功績によって、彼は徳川家の「三つ葉葵」の紋の使用と航海自由、諸役免除という朱印状をもらうことになりました。その特権を十二分に使って、角屋は遠隔地との交易に手を広げ、蒲生氏郷が松坂に転封になると、その町づくりをも手伝って、大湊の住民を域内に移住させて湊町をつくっています。

海外に雄飛した角屋 鎖国令で安南に骨埋める

 仙台、長崎、堺に出店を持った角屋は、さらに大きく飛躍して安南へ渡り、交●址の日本人町に住み着きました。こうして安南と日本の間を往き来して交易を続けているうちに、徳川幕府の鎖国令のため、帰国を阻まれ、遂に安南の地に骨を埋めることになりました。
 伊勢の回漕業者は、桑名と大湊に多かった。この両港に集まる諸国の産物を売買する問屋業者も発達して、湊町を形成していきました。

伊勢商人初期の有力者は近江から移住の松坂商人

 航海業者に続いて盛んになった伊勢商人の中心勢力となったのは、松坂の商人でした。天正12年(1584年)、近江日野6万石から、伊勢一志郡12万石の領主として松ヶ島城に転封された蒲生氏郷を慕って、多くの日野商人が移住してきました。こうして移住してきた松ヶ島町の商人たちの中には、伊豆蔵(いずくら)、雲出蔵(くもずくら)、射和蔵(いざわくら)、鎌田蔵、下蔵など蔵方と呼ばれる豪商たちが含まれていて、伊勢商人初期の有力者となっています。

家康の江戸の町づくりに参加した伊勢商人

 天正18年(1590年)、徳川家康が江戸の町づくりを始めると、三河や遠江(とおとうみ)の商人と並んで伊勢商人もいち早く参加して、移住しています。当時の江戸は、大手門の外に茅葺(かやぶ)きの家が百軒ほどあるだけで、日比谷の浜に夕陽が照り映え、その海辺に千代田、宝田、祝田などの漁村が点在しているのどかな風景があったにすぎない。海上では、時には潮吹く鯨を見かけ、魚と貝だけは豊富でした。この漁村を都市に改造しようというので町づくりがはじまったのでした。

元和年間に伊勢の豪商らが江戸へ進出

 元和のころ(1615~23年)、松坂の蔵方、伊豆蔵、射和蔵、大黒屋などがまず江戸へ進出して呉服店を開きました。三井高利の兄の俊次が江戸へ下ったのもこの頃で、寛永4年(1627年)、江戸本町4丁目にささやかな小間物店を開いています。
 徳川時代の江戸は世界最大の都市で、多いときは人口100万人と推定されており、そのうち武士とその家族・家臣団で50万人を超えていました。武士階級は全くの消費者で、非生産的な存在であるうえ、江戸の周辺は生産性が低く、商品の大部分は上方から送られてきました。衣類も食品も調度品も、すべて上方から運ばれてくるのですから、商人が必要でした。
 伊勢商人の多くは大伝馬町1丁目に店を構えていました。伊勢屋清左衛門(木綿問屋)、長谷川屋次郎吉(同)、長谷川屋源右衛門(同)、丹波屋(長谷川)次郎兵衛(同)、大和屋九郎左衛門(同)、冨田屋利兵衛(茶問屋)らです。

伊勢商人の代表・河村瑞賢

 ところで、伊勢商人の代表的人物の一人に河村瑞賢がいます。瑞賢は伊勢国、度会郡東宮村(現在は南島町)の農家の出身で、元和4年(1618年)2月の生まれでした。13歳のとき、瑞賢の才智を高く買っていた父は、長男だったが、農業は次男にやらせることにして、たまたま江戸に行く知人がいたので、その人に連れていってもらって、倅(せがれ)を江戸へ出してやりました。
 しかし、この父の見立ては外れて、瑞賢の運命は一向に開けませんでした。そこで彼は、上方へいってやろうと決心しました。車力として荷運びをしていた彼は早速、大八車を売り払って二、三分の金に換えると、それを懐中にして、東海道を小田原の宿場までやってきました。ここが瑞賢の生涯の分岐点になりました。
小田原で捲土重来期し江戸へ戻り飛躍のきっかけ
瑞賢はその宿で相部屋となった老爺(ろうや)に、「この国の中心は江戸だ。江戸で駄目な者がどうして上方へ行って成功するんだね?すぐに江戸へ引き返しな」と諭され、品川の宿まで戻ってきました。これからが瑞賢について、よく知られている逸話です。
 その日はたまたまお盆の終わった17日のことで、精霊流しの茄子(なす)や胡瓜(きゅうり)がいっぱい浜辺に打ち上げられていました。そこで、近くの子供や老人に十文ずつやって、それを拾わせると、古桶を買ってきて塩漬けにしました。そして、これを人足寄場や工事場へ持っていって売ってみると、思わぬ評判を取ったのです。毎日のように工事場へ行ってうちに、土工の指図をしていた役人と知り合い、その縁で今度は人夫頭になり、人使いがうまいというので、次々仕事を任されます。こうして稼ぎためた金で、家を建てた瑞賢は、資本もできたので、今度は商売に手をつけました。

明暦の大火で木曽の山林の材木買い集め巨富

 まず土建業の材料から始めて、やがて材木を手掛けるまでになりました。当時の江戸は、まだ茅葺き屋根の家が多く、そのうえどこでも裸火を使っていますから、火災の多い都市でした。そこで、またよく知られた逸話です。
 明暦のころ(1655~57年)、江戸に大火があったとき、瑞賢はあるだけの金を懐中にして、木曽へすっ飛んで行って、山林の材木を買い集め、それを江戸で売って大儲けしたといわれています。ただ、木曽の山林は尾張藩のもので、商人が自由に取引できたかどうかという点で、この話はいささか疑わしい。しかし尾張藩の林政改革は寛文5年(1665年)ですから、あながちあり得ない話という説もあります。
 明暦の大火のときは、瑞賢40歳の働き盛りで、以来、土建業を手広く営んで、幕閣や諸大名の注文を受けるようになり、いよいよ巨富を成したといいます。

瑞賢は”政商”の元祖 各地の建築・河川改修も

 瑞賢は後世の”政商”の元祖といってよく、幕府の建築を請け負うと、役人が大まかなので、民間の2倍は儲かったといわれています。もちろん、それには賄賂、つまり袖の下が行われていたことは、まず間違いないでしょう。瑞賢は芝増上寺の改築や駿府久能山の鳥居の築造、京都の八坂の塔などの修理を請け負って好評を博したといいます。
 その後、彼は幕府から依頼されて奥羽海運の改革に挺身しました。これは、東北の米を江戸に持ってくるためで、彼は東北の山野を調査し川筋を整え、湊を改修して海運が可能なように改めました。この改修によって、各地から土地改修の依頼が相次いだようです。
 1683(天和3)年、幕府の役人とともに、瑞賢は大坂へ派遣され懸案の淀川改修事業に乗り出すことになりました。4年の歳月を費やして、ようやくこの難工事が完成。その結果、彼は材木やから土木建設業に変わってしまって、各地の土地改良工事を頼まれることになりました。1697(元禄10)年、五代将軍綱吉に拝謁、翌年に禄米150俵を賜って、名を平太夫と改め、幕臣に取り立てられています。

伊勢の豪商たち 今も松坂に残る長谷川家屋敷

 伊勢商人の源流は射和(いざわ)、丹生(にゅう)などの出身者で占められ、中でも射和の富山が有名です。また、伊勢商人の成功者の代表一人、長谷川家はいまもその屋敷が松坂に残っています。その他、射和の家城、国分、竹川、札野、相可(おうか)では大和屋(西村)、大黒屋(向井)、丹生の梅屋(長い)、松坂では三井(越後屋)、伊豆蔵(鈴木)、小津、殿村、津では田中(田端屋)、川喜田(伊勢屋)などの豪商が輩出しています。

三井家の始祖-越後屋の礎つくった高俊の妻

ルーツは藤原道長に発し、戦国武将で一城の主
 伊勢松坂の三井家は、江戸へ出て財を成し、日本一の大商人と自他共に認める存在になりました。三井家の家伝によると、平安の頃、御堂関白といわれた藤原道長に発し、その五代目信忠の子、信生が初めて三井氏を称したといわれています。それから十一代目に嗣子がなく、佐々木源氏の一統から養子をもらった。これが三井備中守高久で、一城の主だったという、つまり戦国武将の一人でした。

松坂に居を定めた豪商三井家の祖・高俊

三井備中守高久から五代後の越後守高安のとき、織田信長に攻め滅ぼされて佐々木一族はあるいは絶え、あるいは諸国へ逃げて分散してしまいました。高安はこのとき、伊勢へ行ったものとみえ、その子、高俊が松坂に居所を定めました。したがって、近江から伊勢へ移ったものです。武士から商人になったわけですが、高俊は根っからの武家育ち、そこで商売は妻に任せっ放しで、彼はもっぱら連歌や俳諧、あるいは遊芸に日を送る、いわば髪結いの亭主でした。

子供の養育、家事、家業繁昌させたスーパーウーマン

 家業を任された妻は、男子4人、女子4人の子供を次々に産み育てつつ、その間、一日も休まず店を開いて、“越後屋の酒屋”と呼ばれるほど、店を繁盛させました。高俊の妹は伊豆蔵へ嫁入り、三井家はすでに伊勢の豪族の仲間入りしていましたが、13歳で嫁入りしてきた法名殊法(俗名、通り名は伝わっていない)は商法に明るく、天性商い心を持った女性で、8人の子供の養育から家事全般をみて、しかも立派に店を栄えさせたのですから、まさしくスーパーウーマンです。
 殊法は、金融業と質業を主体として、貸付高を増やし、質流れをうまく処分して、利益を増やしました。40歳を過ぎてからは寒中でも、毎日朝七ツ(午前4時)に起きて神仏に祈願を捧げてから、店へ出たといいます。慈悲心に富んでいて、使用人の面倒をよくみたから、誰一人として悪く言う者はいませんでした。

高利の「薄利多売、現金売り」で人気沸騰

 殊法の子供たちの代に江戸へ進出、京都、松坂の3拠点で切磋琢磨。とりわけ頭抜けた商才に恵まれていた高利が司令塔となって進め、越後屋・江戸店で展開した「薄利多売、現金売り」の新手法は業界の大きな話題となりました。江戸ではこんなやり方をする店は一軒もありませんでした。もちろん、出る杭は打たれる。まして新商法は同業者にとっては“癪(しゃく)の種”です。急速に伸びる越後屋に対抗して呉服屋仲間が、露骨な妨害を仕掛けてきます。

幕府の呉服御用達に 江戸の商法を一変させる

 しかし、三井高利はこれらの妨害に一歩も引かず、ことごとく押し返しました。その結果、三井の繁昌は中傷や脅しにもかかわらず、なおも続き、そのうちに江戸の呉服店の方が参ってきて、遂に三井と同じ現金売りをする店が出始めました。江戸呉服商の屈服でした。貞享4年(1687年)、幕府は三井に呉服御用達を命じました。幕府の御用達となった三井に対する妨害は、幕府に反抗する行為であって、もうこうなっては呉服商たちは、手も足も出なくなってしまったのです。こうして江戸で日に千両の商いをするのは、芝居と日本橋の魚河岸と、越後屋であるとまで謳われる大商店に成長したのです。三井高利は、その抜群の商才を縦横に駆使して、江戸の商法を一変せしめたのでした。
 この後も“宗竺遺書”と呼ぶ家憲に則って、三井の全事業は間違いなく運営され、創業者の意思と思想が代々継承されていきました。 

かつての20万両の隠し財産が1万5000両に激減

 始祖・高利から八代目の高福(たかとみ)のときに、動乱期がやってきました。三井は地下の穴蔵に壺を隠していて、その中に穴蔵金と称する隠し財産を持っていました。かつては20万両を超えていた穴蔵金が、幕末にはわずか1万5000両に減っていたのです。動乱と、外国貿易のため糸類が暴騰して、日に千両の商いどころか、越後屋も気息奄々(えんえん)たるありさまでした。

三野村利左衛門からの極秘情報で危機脱出

 外国と日本とでは、金銀の交換比率が3対1だったため、日本へ銀貨を持ち込んで金貨に換えて持って出るだけで多くの利が得られたのです。その結果、たちまち何十万両もの金貨が流出したため、幕府は慌てて小判の改鋳を行いました。
 もし、それを知らなかったら、三井両替店は潰れていたかも知れません。それをこっそり教えてくれたのは、小栗上野介(幕府の勘定奉行)の元仲間(ちゅうげん)をしていた三野村利左衛門でした。今では銭両替となっている利左衛門は、見込まれて三井家の番頭となっていました。子飼い店員ばかりの三井にしては珍しい中年奉公でした。渡り仲間から金平糖の行商、そして銭両替と、世間の裏表をよく知っている三野村は、三井に命令された御用金250万両を、巧みに交渉して、うまく逃げてしまいました。その功績を買われて三野村はやがて大番頭に抜擢されました。

幕末動乱期 官軍側に賭けた三井両替店

江戸では御用金を断りながら、その一方、京都の大元方は、いち早く薩摩に接近していました。もはや幕府の命運は尽きたと判断。次はこの薩長勢力を中心とする朝廷側だと、三井は先を読んでいました。そこで、朝廷側の御用係となって資金集めを引き受けました。
 慶応4年(1868年)、由利公正、大久保利通、後藤象二郎たちが集まって「会計基金三万両」の募集を行いました。この国債募集の実行は、三井が中心になって進められました。鳥羽伏見の戦いの折、資金に苦しんだ薩摩藩兵が三井に金を頼んできたときも、有り金をかき集め薩摩藩の本営、相国寺に届けました。江戸へ向かって進軍を開始した官軍はしばしば旅費に窮して立ち往生していました。そんなとき、軍資金係を引き受けたのも三井でした。
 そのため、穴蔵金はすっかり空になってしまいましたが、その代わり明治維新政府の、年貢米や国債の取り扱いを任されたので、三井は新政府の経理係を引き受けたようなものでした。

大隈、渋沢立ち会いのもと三井銀行設立 呉服店分離

 三井と小野組の当主が、天皇の東京行幸のお供をして、太政官札ばら撒きました。三井が保証するならというので、官札が通用したのです。
 明治4年(1871年)海運橋際に、日本初の洋風ビルが竣工しました。この西洋風五階建ての建築こそ、世に三井ハウスと呼ばれるものでした。明治5年、大蔵大輔(次官)・井上馨の邸へ呼ばれた三井の当主と三野村は、大隈重信参議、大蔵大臣・渋沢栄一立ち会いの下で、呉服店と両替店を分離して、銀行設立に専念せよという命令を言い渡されました。このとき分かれた呉服店が後の三越となり、本店機構と両替店を合わせて三井銀行ができ上がりました。

(参考資料)邦光史郎「日本の三大商人」