日本的経営の源流とされる近江商人には「押し込め隠居」という制度がありました。元来、大店(おおだな)では跡継ぎの男子が素行の芳しくない場合には廃嫡し、女子に優秀な婿を取って後継者とする慣例がありました。
現当主でも、遊興に大金を浪費したり、店の存続を危うくする行為が続く場合には、親族や後見人ら幹部による「取締役会」が協議して強制的に罷免することができたのです。
創業200年超の日本企業は約3100社。国際比較で2位ドイツ(1500社超)を大きく引き離しています。日本企業のサステナビリティー(持続可能性)は世界屈指といえます。
商人の系譜の中で最も有名なのが近江商人であり、いわば日本商人の中核を成していたともいえるのですが、ではどうして興ったのかとなると、実は諸説あって、その起源は明らかではありません。
近江は上田が少なく、山間地が多く、びわ湖が災いして水害が多く農業経営に不安がありました。そこで商業に転じたという説があります。
近江では、織田信長が安土城の城下町で大いに商人を優遇し「楽市楽座」を奨励しましたし、豊臣秀吉もまちづくりのためこれを踏襲しました。日野の蒲生氏郷(がもううじさと)、近江八幡の豊臣秀次なども盛んに商人を保護したことで、多くの商人が各城下町に集まりました。ところがいずれも廃城、あるいは転封されて商人だけが取り残されたので、困って他国へ行商に出るようになったと説く人もいます。
びわ湖に面しているので湖畔の住人は船によって移動する航行の便を持っていました。さらに鎌倉と京都、あるいは江戸と西国、日本海沿岸と京を結ぶ交通の要衝に位置する立地条件から行商に出やすかった-などの見方もあります。
こうしてみると、端的に説明し切れる根拠はありません。そこで諸説の中、最もな点を拾い出して考察していくと、近江の地理的条件が首都である京都に近く、東海、中仙道、北陸など諸道の集まる要衝の地を成していて、あらゆる物と人とが近江を通過していった事実や、湖の氾濫によって耕地が狭められはしたが、その半面、水上交通の便のあったことが、商業に幸いした点も見逃せません。
さらに、かつて手厚い保護を与えてくれた領主の敗北、転封により、この地の商人たちは行商に活路を見出さざるを得なくなり、ひいては積極的な行商への道へ駆り立てていったものとみられます。
近江の国は全体からいうと81万石の土地でしたが、彦根の井伊藩以外は小藩ばかりで、しかも旗本領もかなり混じっています。とにかく近江に領地を有するもの254名、とくに蒲生郡などは80余領主、滋賀郡は50余領主に分かれ、甲賀(こうか)、野洲(やす)、栗太(くりた)の各郡はそれぞれ40余の領主を上に仰ぎ、一村が11人の知行地に分割されていた場合もあって、これではとても保護は期待できません。
半面、これだけ細かく分割されていたことで、交通の自由があったのです。大藩の領民は藩内に閉じ込められ、他国へ出向くことが難しいが、近江の住民は領国の掟に縛られることが少なかったというわけです。
これらが近江商人の発生起源と思われますが、その多くは日野、近江八幡、五個荘(ごかのしょう)、愛知川(えちがわ)を中心とするもので、蒲生郡、愛知郡に集中して、一部犬上郡に及んでいます。
近江商人は、開業当初こそ行商によるのですが、少し資本を蓄積すると、すぐさまここぞと思う場所に出店を持ち、それを広げて店舗経営に従事しました。京、大坂、江戸の三都に、それぞれ出店して、京の室町、大坂の船場、江戸の日本橋といった三大呉服市場に勢力を張り、その他の各都市にそれぞれ店舗を構え、とくに衣料品関係では圧倒的な強みを発揮しました。
近江の千両天秤(てんびん)といって、彼らはどこへでも天秤棒を肩に商品を担いで行商に出かけていきました。そこで、近江商人は天秤棒一本で千両稼ぎ出すとも、あるいは千両稼いでもなおまだ天秤棒を担いで行商に出かけていったともいわれています。
近江商人の中で、最も古くから活動し始めたのは、八幡商人だといわれています。ただ、蒲生氏郷の保護を受けて商業活動を開始したのは1570年代(天正年間)の日野商人の方が早かった。これに対し、江戸進出は八幡商人が1615年ごろ(元和年間)で早かった。領主の豊臣秀次(秀吉の甥、20万石)が滅びて、主(あるじ)が京極高次(2万8000石)となり、家臣の数が10分の1に減り、やむなく八幡商人は新しく開かれた天下人の町、江戸へと向かったのです。
日本橋の草分け町人となった八幡商人は、出店をつくったばかりか、菱垣廻船十組問屋の有力メンバーとなりました。その顔ぶれは伴庄右衛門、伴伝兵衛、伴彦四郎、西川理右衛門、松本七左衛門、西川又四郎、西川理助、井狩金十郎、中村庄三郎、川端庄兵衛、中江太次右衛門などだった。この先発組に続いて、森五郎兵衛、西川庄六、原田甚九郎、梅村弥左衛門なども出店、彼らは江戸だけでなく、京・大坂にも進出、三都の商業地の中心勢力となりました。
このほか、安南(現在のベトナム)へ渡って交易をした商人に安南屋・西村太郎右衛門がいます。鎖国令の下で日本へ帰れなかったのです。
八幡商人は、まず行商に始まります。富豪となった大商店主も、創業時は行商から始めた人たちで、財を成してからも主人自ら行商に出かけていきました。身に木綿の衣服をまとい、足には紺色の脚絆(きゃはん)を着けた草鞋(わらじ)がけで、頭に菅笠、そしてマントのような縞模様の引き廻しに身を包んで、肩にした天秤棒の先には大事な商品がつけられていました。
蚊帳(かや)、畳表、布、呉服が主要商品ですが、行商といっても、もともと高級品のことだから、土地の名家や資産家を顧客としていたもので、今でいう行商とは内容が違います。天秤棒一本から身を興して巨富を生み出したのも、その商品が高級品だったからです。
西川甚五郎は1615年(元和元年)の創業で、店名を近江屋作兵衛と称しました。日本橋に店を持つこの西川甚五郎店は、徳川の初期から連綿と続いて、明治になってからもさらに躍進を重ね、関東大震災や戦災をも乗り越えて、現在に至るまで盛業を続けています。現在の西川産業がそれです。
八幡商人のうち市田清兵衛は、父祖の代から小間物を主とする行商に出かけ、三代清兵衛の時から、呉服太物、綿類を扱うようになりました。彼は主として上州の安中(あんなか)へ出かけていきました。そして帰途、麻、真綿などを現地で仕入れてきて、江戸や名古屋、あるいは京で売りさばいたのです。1714年(正徳4年)、78歳の天寿を全うした清兵衛は、大きな資産と家法を遺して世を去りました。
ところで、同じ近江商人でも、八幡と日野とでは全く協調体制を取らなかったばかりか、東北の方では、日野商人が後から入ってこないよう八幡商人の”ゑびす講”が結束して、山形藩に働きかけたものとみえて、「近江日野商人より古手(古着)を買わないように」という、お触れ書きが出されています。今日風にいえば、同郷人であっても、ビジネスはビジネスとドライに割り切っていたということなのでしょうか。
山形や仙台の城下町で店を持った近江商人たちは、それぞれ財を成して、藩庁に金を貸して、藩の財政に深い関わりを持っていましたから、藩庁の役人を動かす力を持っていたのでしょう。北関東や東北地方の商人に、近江商人の系譜を引くものが多いのはこのためで、北海道へ進出して、漁場を拓いたばかりか、住民に漁具を与え、鰊や昆布を獲ることを教えたのも近江商人でした。
北海道には玄関口に松前藩(10万石、昆布その他の海産物の換算)があるだけで、後は全くの未開地とされていました。この10万石の産物を引き受けて、換金、換物していたのが近江商人で、松前では岡田弥三右衛門(松前名で恵比須屋弥三次)、西川伝右衛門、(松前名で住吉屋徳兵衛)といった八幡商人が、有力5店の上位を占め、もう一人の藤野喜兵衛(松前名で柏屋喜兵衛)は愛知(えち)郡枝村の出身で、後には富豪17名中、11名が近江商人という盛況ぶりでした。
店の規模は別にして、出店の数の多さでは日野商人が群を抜いています。近江商人の商業活動は、日本のへそといわれる地理的条件をフルに活用して、北陸や美濃の産物を、京・大坂へ運び、京の産物を周辺の各地へ持ち回ることから始まりました。米、塩、海産物を、奈良や京都へ運んでいるうちに、輸送人から商人になって、搬入ばかりか売りさばきにまで手を広げるようになりました。
日野商人の故郷、滋賀県蒲生郡日野町は、いささか交通が不便です。国鉄の草津線の貴生(きぶ)川で近江鉄道に乗り換えるか、近江鉄道で八日市(ようかいち)から日野へ入るか、あるいは近江バスで、近江八幡の駅前から日野車庫行きに乗るか、それとも車で乗り込むか、いずれにせよ幹線交通から外れています。近江八幡からバスで約40分かかります。鈴鹿山系の一つ、水口丘陵が近くに山容を浮かべていますが、日野町は広々とした田園にすっぽり包み込まれています。
1504年(文亀4年)、蒲生氏が音羽城を築き、城下町を設けたと伝えられています。現在の町の形はその折のものだといわれています。鍛冶町、鉄砲町、弓屋町、大工町、白銀町、赤銅町などとともに、塗師町が設けられたのは日野椀をつくるためでした。
蒲生定秀、賢秀(かたひで)、氏郷(うじさと)の三代が在城した52年間が、日野の城下町時代で、多くの工人や商人が集まったばかりか、蒲生氏の所領日野128郷の物資の集散地として栄えました。
織田信長が天下人となって以来、蒲生氏はその部将として従いました。信長が本能寺で自刃した後は、秀吉に従って自領の安全を図りました。氏郷は手厚く商人を保護して、商業を奨励しただけでなく、武将としても勇名を謳(うた)われ、秀吉の命によって、伊勢の各地に転戦しました。その功績によって、伊勢松ヶ島12万石に封じられました。日野6万石から倍の所領をもらったが、蒲生氏郷にとって、日野は祖先墳墓の地です。そのうえ領民との結び付きが深く、親子のように親密な関係にあったので、去るに忍びず、自分がいなくなった後、もし日野の地が衰運に向かったらどうしようかと、心配でたまらず、秀吉に願って、日野郷に与えた恩典をそのまま続けられるようにしてもらいました。
この氏郷を慕って、日野の住民の多くが、氏郷に従って伊勢へ移住しました。これが伊勢商人の一部となったもので、その後、氏郷が会津へ転封になると、やはりまた氏郷に従って、多くの住民が伊勢から会津へついていったといわれています。氏郷は、そんな日野の住民を慈しんで、伊勢の松坂や会津の若松に、日野町の名を残しています。
日野郷の町並みの中ほどに、今も”中井”の表札を掲げた”中井家”の本邸が健在です。ただ、現在は商業とは無縁で、子孫が住んでいるだけですが、江戸時代、この邸は中井コンツェルンの本拠とでも言うべき、当主の邸でした。
中井家の先祖、中井源左衛門は、巨商の多い近江商人の中にあっても、一頭抜きん出た存在で、中井コンツェルンともいうべき企業体をつくり上げました。
(参考資料)邦光史郎「日本の三大商人」、邦光史郎「豪商物語」、童門冬
二「近江商人魂 蒲生氏郷と西野仁右衛門」