大阪のビジネスの中心、北浜のはずれ、高麗橋の東詰めから約100㍍東、オフィスビルに囲まれた一角に「大阪銀座跡」の石碑(大阪市中央区)がひっそりと立っています。銀座といえば、何といっても東京のイメージが強い。ところが、江戸時代の大阪に銀座が置かれたのは、実は江戸よりも4年早いのです。大阪銀座は他の都市とは違う役割がありました。
縦約40㌢、横約50㌢の小さな石碑「大阪銀座跡」には、「慶長13年(1608年)に置かれ…」とあります。当然のことながら、一般に銀座というと繁華街や商店街をイメージしがちです。しかし、元々は近世に銀貨の鋳造をしたり、銀地金を売買したりした場所を銀座と呼んだのです。その銀貨の鋳造所があった場所が地名としての銀座といわれるようになっていきました。ただ、大阪銀座は鋳造せず、京都の銀座に送るための銀を集める京都の出店の役割を果たしていました。
徳川家康が江戸幕府を開く前の1598年、伏見城下(現在の京都市伏見区)に銀貨鋳造所を設けたのが銀座の始まりとされています。伏見銀座はその後、京都銀座(京都市中京区)に移りました。1606年、家康のお膝元である駿府(静岡市葵区)にもつくられ、江戸にできたのは1612年。駿府銀座から移されたといいます。
大阪銀座の役割は3つありました。1つ目は生野(兵庫県朝来市)や石見(島根県大田市)といった銀山から銀を仕入れ、京都に回送することでした。大阪は産地と鋳造所の中間に位置します。船での荷受けや荷出しがしやすいように川沿いに設けられました。2つ目は大阪の市中に出回っていた使い古しの銀貨を新しい銀貨と交換することです。 「東国の金遣い、西国の銀遣い」といわれるように、江戸時代の大阪の決済は銀建て。銀の塊を持ち歩き、その場で銀を切断して支払いに充てる「現銀商売」もありました。時代が移るにつれ徐々に手形決済に移行しますが、信用の源は蔵に眠る銀。帳簿上は銀がやり取りされていたことになっていたのです。
3つ目の役割は、銅を精錬する際などに出る「灰吹銀」と呼ばれる銀を集めることでした。江戸時代の日本は世界有数の銅産出国で、とくに大阪は銅精錬の中心地でした。住友財閥のルーツともいえる住友長堀銅吹所は36年に開設され、日本の生産量の3分の1を精錬していたとされています。大阪は元々、銀と縁の深い土地だったのです。
大阪市内から外れますが、実は堺市も銀とゆかりがあります。南海電鉄高野線「堺東」駅近くに「銀座の柳」と題した観光案内板(堺市堺区)があります。東京・銀座の柳は通りの名前や、ご当地ソングの題名になるほどの象徴的な街路樹です。東京都中央区の木にもなっています。観光案内板によると、これはあくまでも伝承ですが、東京・銀座の柳は元々、江戸時代に堺から移住した銀細工職人が故郷を懐かしみ、堺から移植したと書かれています。
家康は伏見、京都で銀貨の鋳造を始める際、堺出身の銀職人の湯浅作兵衛を技術長に当たる「銀吹人」に任命し、現場を取り仕切らせたとされています。その後、京都の銀座が江戸に集約されるのに伴い、作兵衛をはじめとした堺の職人たちは江戸に移り住んだといいます。
江戸時代は金貨と銀貨が併用されていました。当時の公定レートは金1両に対して銀60匁(1匁は3.37㌘)。しかし、銀貨は徐々に使われなくなり、明治維新を迎えて政府が貨幣制度を円建てに統一したことから、大阪の銀座も役割を終えました。
銀貨鋳造所がなくなってからも、東京・銀座は明治から大正・昭和にかけて、常に時代をリード、世相を反映した風俗やファッションなどの日本の中心地でした。戦後は世界のギンザといってもいいときがありました。”銀ブラ”という言葉が生まれたのは大正年間のことでした。
銀座、築地一帯を焼き払った明治5年2月の大火がきっかけで、大蔵大輔・井上馨と東京府知事・由利公正は、当時の”新建材”煉瓦による東京全域の不燃都市化を計画。英国人技師トーマス・ウォートルスの設計で、まず銀座がエキゾチックな二階建ての煉瓦街に生まれ変わりました。新しい街・東京の誕生でした。国家予算の27分の1に当たる180万円がつぎ込まれて、新橋から京橋までのメインストリートが完成したのは明治7年のことです。
銀座煉瓦街が文明開化のシンボルとして、ようやくその繁華をうたわれるようになったのは明治15年前後から。街路樹の松、楓(かえで)、桜が長持ちしないので、すべて柳に換えられたのは明治20年ごろといわれます。
ただ、国と首都が連携して推進しようとしたこの雄大な不燃都市化のビジョンが、銀座地区だけで中絶の憂き目を見たのは住民たちの住民たちの予想外の激しい抵抗があったからです。住民の声に全く耳を傾けることなく、住民の頭越しに進められようとする、いわば住民不在の施策に、住民が”NO”を突きつけた結果でした。