住吉区の歴史

住吉区の歴史
十万年前の住吉にはナウマンゾウが住んでいた

 『住吉区七十年史』によると、今から十数万年前の大阪のほとんどは上町海と呼ばれ、深さ23㍍もの海底にありました。それが地殻の隆起現象によって、今日の大阪が誕生したといわれている-とあります。したがって、十万年前には大陸から渡ってきたナウマンゾウが大阪に棲息していました。
 このころの大阪は、氷河期と氷河期の間の比較的、暖かい間氷期にあたっていたようで、平成3年、住吉区山之内町で発見された象の足跡は、このころのものといわれています。
 山之内町で見つかったナウマンゾウの足跡は、現在の地表から約7㍍の深さにある湿地(泥炭層)の中から、複雑に重なり合って、他のシカやウシなどの仲間の足跡とともに発見されています。
 現在、大阪府下で発見されている旧石器時代の遺跡は100カ所を超えていますが、山之内遺跡、住吉大社境内遺跡など、そのほとんどは旧石器時代でも新しい時期に属する後期石器時代のものです。

住吉は上町台地の南部に位置し、海抜10㍍の低平地

 住吉区は、大阪市域では南部にあって大阪平野のほぼ中央部に位置しています。その大阪平野の広がりは北東~南西に約55㌔㍍。北西~南東方向に約28㌔㍍のほぼ楕円状を形成し、大阪湾の東側に臨む低平地となっています。
平野の北側には北摂・六甲山地、東側は生駒・金剛山地、南側は和泉山脈が囲むように聳えています。中央部には南北に細長く延びる上町台地によって低平地が東西に分かれています。
 上町台地は、大阪城付近から南へ延びる幅2㌔㍍の南北に細長い台地であり、北側に近い法円坂町(中央区)付近が最も高くて標高23㍍、南に行くほど徐々に低くなって阿部野付近では15㍍、住吉付近では10㍍ほどの高さです。住吉区内で最も高いのは帝塚山付近で10㍍余です。

古代、住吉=「すみのえ」の広大なエリアを意味した

 住吉は古代では「すみのえ」と読み、万葉集にも登場し、歴史は極めて古いのです。現在、住吉、住之江、墨江は別の地域名となっていますが、実は元は住吉の読みの「すみのえ」の異表記でした。つまり、古代、住吉はこれらの地域全体の広大なエリアを指していました。

住吉=澄んだ清らかな入り江

 住吉は、『古事記』では「墨江」、『万葉集』では「墨江」や「須美乃延」などと表記され、新修大阪市史編纂委員会が編集した『大阪市史』によると、その意味は「澄んだ入江のこと、と常識的に解される」とあります。
 澄んだ清らかな入り江が住吉の語の意味とすると、住吉の地名は大阪に限らず、各地に存在し得ることも十分考えられます。しかしいま、住吉といえば大阪市住吉区の住吉が最も著名です。
 それは、住吉の後背地である河内平野および、それに接続する奈良盆地が古代、経済的にも政治的にも最先進地だったためです。その優れた立地条件により、清らかな入り江に成立した住吉津が、河内政権や大和政権の首都の外港として重視され繁栄した時期があったことによるものと考えられます。

住吉津(すみのえつ)は先進文化導入の国際港=表玄関

 住吉は元は摂津国住吉郡といい、古代には住吉津(すみのえつ)と、それを護(まも)る住吉大社が栄えたことで、難波津(なにわのつ)など大阪中心部とは一線を画し、難波津より早く栄え、独自の発達を遂げました。
 住吉郡は、古代における摂津国を構成する一つの郡でした。その住吉郡の
範囲は、北は西成郡・百済郡の郡開まで、東は平野川(百済川)・磯歯津道・難波大道を結ぶ線、南は大津道(長尾街道)、それに東および南は河内国・和泉国に接していたといわれています。
 住吉津は古代=ヤマト王権時代(3世紀後半~6世紀後半の古墳時代)の国際港であり、難波津が造られるまでは日本の国際的窓口であり、当時世界的に進んだ中国の様々な文化導入のため派遣された、遣隋使や遣唐使はここから出発して行きました。また、ここはシルクロードの玄関でもあり、仏教もここから入ってきたのです。

当時の隆盛を裏付ける古墳群と入り江

 こうした事実を裏付けるのが住吉と呼ばれた地域一帯に分布する数多くの古墳群であり、細江川、大和川の沿岸一帯の入り江の存在です。
 古墳は、そこに埋葬された当時のその地域の支配者=豪族の墓であり、その権力の大きさを測る物差しでもあります。この地には前方後円墳、帝塚山古墳を筆頭に大帝塚(おおてづか)古墳、弁天塚古墳、二本松古墳、万代古墳など、住吉とその周辺を支配していた豪族(詳細は後述)たちの墓が残っています。
 大阪湾に面したところに造られたこれらの古墳は、大阪湾を往来する漁船や外交船、交易船の格好の目印となったことでしょう。

遠里小野・山之内・杉本・浅香にわたる大規模な遺跡

 住吉区の遠里小野から山之内・杉本・浅香にかけて大規模な遺跡が広がっています。南は大和川まで、西は南海電鉄高野線西側の遠里小野小学校、東はJR阪和線を越えて我孫子東町に及んでいます。我孫子台地の海抜8㍍から10㍍あたりに立地しています。 
 弥生時代前期中ごろの土器が出土したと伝えられていますが、詳しいことはよく分かりません。人々の生活の跡がたどれるのは弥生時代前期末以降のことです。そして中期には栄えましたが、一時その痕跡が途絶え、古墳時代になって再び人が住みついたようです。

外交・交易の発着港となった入り江

 古墳が造られた頃には、住吉大社の南に流れる細江川辺りに「住吉細江」という入り江があり、さらに南の遠里小野(おりおの)付近の大和川の流れる辺りは「朴津水門(えなつみなと)」「浅香浦(あさかうら)」と呼ばれた入り江になっていました。
 これらの沿岸一帯の入り江には多くの漁船や外交船が発着する港があり、外交や交易の場として栄えていたと考えられます。

大伴氏など有力豪族が居住した住吉津

 住吉津は、難波津よりその頻度は少ないのですが、『古事記』や『日本書紀』にも登場します。早くから有力な氏族がここを拠点として勢力を広げ、また海外から渡来してこの地に居住した氏族も少なくありませんでした。
 大阪市域とその周辺を拠点とした氏族(豪族)をあげると、住吉津の付近は大伴連・津守連・依網阿比子(我孫子)などがいました。大阪市域からは外れますが、上町台地の東方を流れる大和川の下流地域(後の渋川郡・若江郡、現在の八尾市、東大阪市)には物部連がいました。大伴氏、物部氏といえば、古代史に数多く登場する有力豪族です。

遣唐使船に神主として安全を祈願した津守氏

 住吉大社は航海の安全を守る神社として広く崇拝され、もともと大阪湾岸の港で活躍していた「津守氏」という一族が、代々神主を務めていました。この津守氏には中国や韓国に使者として派遣された外交官もおり、また遣唐使船に神主として乗り込み、船上で航海の安全を祈願した人もいたといわれています。
 延暦23年(804年)、桓武天皇の御代、藤原葛野麻呂(ふじわらのかどのまろ)を遣唐大使とする遣唐使が派遣されました。このときの遣唐使船には最澄と空海が乗船していました。そして「津守氏古系図」によると、このとき津守国麿が「遣唐神主」になったという記録があります。

平安期、貴人の参詣が目立つようになった住吉大社

 平安時代の半ばから、住吉大社は貴人の参詣が目立つようになりました。聖徳太子が建立した四天王寺の西門が極楽の東門に通じているという信仰が起こり、四天王寺参詣が盛んになり、浄土信仰が隆盛になるのにしたがって住吉大社が、上皇や貴族の熊野神社への参詣には必ず通る場所でもあったからです。
 現在と違って、当時は住吉の浜といわれるように、住吉大社のすぐそばが海岸であり、松が多いことでも知られていたので、文字通り白砂青松の風光明媚な場所でした。
 『源氏物語』にも光源氏が住吉に参詣する場面があり、王朝貴族の住吉への崇敬の表れとみることができます。このほか、昌泰元年(898年)宇多上皇が行幸の途中、承平5年(935年)紀貫之が赴任地、土佐からの帰途、長保元年(999年)東三条院詮子が左大臣・藤原道長とそれぞれ参詣した記録が残っています。

河内鋳物師が移り住み、一大生産地に

 住吉は産業も盛んな地域でした。鎌倉時代、堺市の美原区周辺で始まった鋳物づくり。これを担ったのが河内鋳物師(かわちいもじ)と呼ばれた職人ですが、彼らは全国各地に向けて鋳物づくりをしていました。
 ところが、700年前ごろから、職人たちが現在の堺市から大阪市住吉区にまたがる五箇庄(ごかしょう)といわれる地域に移り住み、住吉区内の我孫子(あびこ)・苅田(かりた)・庭井(にわい)・杉本などで鋳物づくりを始めました。

「我孫子」「苅田」は鋳物師のムラだった

 かつて全国的に鋳物師と関係を持っていた下級公家が真継家ですが、この「真継家文書(まつぎけもんじょ)」という古い書物に、鋳物師のムラとして現在の「我孫子」「苅田」「庭井」などの地名が伝えられています。発掘調査でも、山之内元町や杉本2丁目、苅田4丁目で鋳物をつくっていたことを示す鋳型や炉、鉄のかすなどがたくさん出土しています。

金剛峰寺の燈台、長谷寺の鐘楼に「住吉…」の刻印

 高野山金剛峰寺の銅製の燈台には「住吉郡山内」の地名が、桜井市の長谷寺の鐘には「住吉郡吾孫子」の地名がみられます。その後、戦国時代に入ると織田信長の庇護を得た、堺の豪商で有数の茶人でもあった今井宗久が五箇庄を治めることになり、鋳物づくりも管理するようになりました。その結果住吉地区が旧来地域の鋳物師を凌駕するようになりました。

荏胡麻油づくりで隆盛誇った遠里小野、山之内

 記録によると、住吉は油の産地でもありました。日本で最初に油が作られたと伝えられる遠里小野は、古代から住吉大社のご神灯の油を作りはじめ、高灯籠のための油も作っていました。中世は京都の山崎の荏胡麻(えごま)油づくりが盛んでしたが、その後、応永~文安年間になると遠里小野や山之内などの油作りが隆盛を誇り、近畿でも有数の油産地になった記録が残っています。

南北朝時代、皇宮が置かれ足利幕府軍との戦場に

 中世には、住吉大社宮司の津守氏の館の住之江殿(正印殿)に、正平年間、1352年、1360~1368年、南朝の後村上天皇の御座所(皇宮)が約10年間置かれました。住吉行宮(すみよしあんぐう、現在の住吉区墨江二丁目)と呼ばれ、南朝の拠点となりました。
 南北朝時代(1336~1392年)、瓜生野(うりうの=遠里小野)に陣を張った楠木正成は住吉・天王寺で北朝方と戦って勝利します。「住吉の役」とも「遠里小野の役」ともいわれています。住吉一帯は足利氏の幕府方の軍勢との大
きな戦いの場になりました。
 住吉周辺は、応仁の乱(1467~1477年)から戦国時代にかけても、しばしば戦いの場となり、我孫子城や新堀城、寺岡砦などが登場します。それぞれ現在の我孫子・堀・西長居の集落がそれです。

かつての大和川は洪水・氾濫、住民に被害

 大和川は住吉区の南を流れる大きな川です。この川はいまから300年ほど前に人工的に流れを変えられて、いまのところを流れるようになりました。
 昔の大和川は奈良県から流れてきて大阪府に入ったところで、いくつも枝分かれして北に向かって流れ、大阪城の北側で淀川に合流していました。この川は古墳時代(3世紀後半~6世紀後半)ごろからたびたび洪水を起こし、家や田畑を押し流して川の近くに住む人々に大きな被害を与えていました。洪水を防ぐための工事は何度も行われたのですが、なかなか洪水の被害を食い止めることができませんでした。

江戸時代に大規模な付け替え工事が行われ、現在の姿に

 江戸時代になって、今米村(いまごめむら=東大阪市)の庄屋だった中甚兵衛らが幕府に働きかけ、川の流れを西の方に変えて、堺の北側で大阪湾に流れるようにする、大規模な付け替え工事を行うことになりました。
 工事は宝永元年(1704年)、公儀・諸藩の共同プロジェクトとして行われ、約8カ月かけて全長14.4kmの新しい大和川が完成しました。住吉区の杉本や山之内辺りの工事は浅香山の硬い地盤を掘らなければならず、とりわけ難工事だったと伝えられています。
 費用は約7万両で公儀普請(幕府による工事、代官・万年長十郎)と御手伝普請(諸藩による工事、姫路・三田・明石・高取・丹波・柏原の各藩、後に姫路藩に代わり岸和田藩)で構成されました。

大和川の付け替え工事で耕地減少などの悪影響も

 この工事によって庭井・我孫子・杉本・山之内・苅田の各村は、耕地の減少や依網池の縮小、さらに狭山池からの用水の途絶など水利事情も変わってしまい、農業にも農民の生活にも大きな影響が出ました。
 庭井村や遠里小野村では新大和川によって、村域が南北に分断され、庭井村は村高の30%の耕地が、遠里小野村では11町7反8畝余(分米222石)の耕地、村高のほぼ14%が、それぞれ失われました。

明治11年の「郡区町村編制法」施行で大阪府住吉郡誕生

 明治11年(1878年)「郡区町村編制法」が施行されて大阪府住吉郡が誕生。郡内では唯一の町だった安立町に郡役場が置かれました。その後、明治29年(1896年)4月に新しい郡制が施行され、住吉郡は東成郡に併合され消滅しました。

昭和元年 大阪市の第二次市域拡張で広大な住吉区誕生

 住吉区は昭和元年(1925年)に大阪市の第二次市域拡張に伴って東成郡全域が大阪市に編入された際、旧住吉郡全域(平野郷町、喜連村、北百済村、南百済村、田辺村、依羅村、墨江村、住吉村、安立町、敷津村、長居村)と旧東成郡天王寺村の区域で誕生しました。大阪市編入の際、当初は名称を「阿倍野区」とする案が出されましたが。最終的に住吉区の名称が採用
されました。

昭和18年 阿倍野区・東住吉区を分離

 昭和18年(1943年)の分増区により、当時の阿倍野区・東住吉区にあたる区域を分離しました。この際、当時の住吉区役所は現在の阿倍野区の区域にあったことから、阿倍野区が「住吉区」の区名を継承し、現在の住吉区の区域を「住之江区」とする案が出されました。しかし、住民の反対によりこの案は撤回され、住吉大社周辺を含む区域が住吉区の区名を継承しま
した。
 またこの際、隣接する西成区との間で区の境界の見直しが行われ、一部区域(天下茶屋・山王地区および旧敷津村の一部)が西成区に分離編入されると同時に、当時西成区に属していた粉浜地区が住吉区に編入されました。

昭和49年 住之江区を分離

 昭和49年(1974年)には住吉区と住之江区に分区されました。従来の区について、細井川(細江川)以北は南海本線、細井川以南は阪堺線を境に東西に分け、西部を住之江区としました。住之江区の分区に伴い、住吉公園や安立、浜口などは住之江区に属することになりました。
住吉区年表
598年 推古天皇、河内に依網池をつくる
645年 孝徳天皇、都を上町台地北端の難波長柄豊崎宮へ移す
    (前期難波宮)
646年 大化改新の詔
726年 聖武天皇、難波宮造営(後期難波宮)
734年 行基、住吉郡御津に「呉坂院」を建立
749年 住吉大社第一回の遷宮行われる
760年 東成郡・西成郡が「東南院文書」に初見
1195年 源頼朝、住吉大社に神馬を奉納
1347年 南北朝の合戦、瓜生野(遠里小野)で展開
1360年 後村上天皇、住吉大社行幸
1364年 室町幕府第二代将軍足利義詮、住吉大社に詣でる 
1496年 浄土真宗第八代法主・蓮如、上町台地法円坂付近に
    本願寺石山別院を設ける
1531年 三好元長と細川高国が南は遠里小野、北は野里の一帯
    で大激戦を繰り広げる
1594年 豊臣秀吉、住吉地域を検地し、住吉大社に社領2060石
    を寄進。近世住吉社領成立する
1614年 大坂冬の陣、徳川家康が住吉神社に陣を敷き、神主・
    津守氏の館に入る
1615年 大坂夏の陣で大坂城落城、豊臣氏滅亡
1634年 大坂三郷(北組・南組・天満組)成立
1704年 大和川付け替え工事
1866年 遠里小野・寺岡・住吉各村で飯米をめぐる徒党事件起こる
1868年 大阪府成立。明治と改元。銀目廃止、商法大意の発布
1869年 明治天皇、住吉大社に行幸
1871年 政府「社領告知」を布告、住吉神社は官幣大社となる
1872年 区画制定、大阪府の各郡を23区224組に分割。現在の住吉区
    は住吉郡第2区1~8番組、西成郡第1区6番組に属す
    学制発布。伊藤忠兵衛、大阪で紅忠(伊藤忠商事、丸紅の
    前身)創業
1873年 住吉公園開園
1877年 住吉警察署を長峡町に設置
    西南戦争始まる
1878年 大阪株式取引所開所
    大阪商法会議所設立認可(1879年1月開所、会頭に五代友厚)
    「郡区町村編制法」施行
1885年 阪堺鉄道(現南海本線)開通
1889年 町村制による住吉郡住吉村・墨江村・依羅村、西成郡粉浜村が
    成立
1894年 依羅村より寺岡・堀・前堀の3大字が分離、長居村が発足
    日清戦争勃発
1896年 住吉郡が東成郡に合併される
1900年 住吉郵便局(現住之江郵便局)を長峡町に開設
    高野鉄道(現南海高野線)開通
    大阪馬車鉄道(現阪堺電気軌道上町線)開通
1903年 大阪で第五回内国勧業博覧会開く(跡地は「新世界」として開発)
1904年 日露戦争勃発
1906年 宇治川電気設立(後の関西電力)
1911年 大阪・新世界の通天閣・ルナパーク開業
    南海鉄道 難波-和歌山市間が全線電化    
1912年 阪堺電気軌道阪堺線が開通
1914年 吉本興業設立
    宝塚少女歌劇養成会(現宝塚歌劇団)が初演
    第一次世界大戦勃発、経済界動揺
1915年 天王寺公園内に動物園開園
1916年 住吉村に市外給水始まる
1918年 第一次世界大戦終わる
    米騒動、大阪・京都などに波及
    中之島公会堂完成
1921年 大阪市役所中之島庁舎完成
1923年 関東大震災起こる
1924年 墨江村・粉浜村に市外給水始まる。大阪府立難波病院(現大阪
    府立急性期・総合医療センター)を開設。阪神甲子園球場完成
1925年 12カ町村が大阪市に編入、第一次住吉区発足。阿倍野町の区役所
    本庁(現阿倍野区)のほか、千躰(せんたい)町(現住吉区)に第一出
    張所、平野宮町(現平野区)に第二出張所を置く
1926年 大阪府新庁舎完成。年号を「昭和」と改元
1929年 阪和電気鉄道(現JR阪和線)開通
    金解禁、米ウォール街で株式大暴落、世界恐慌に発展
1931年 満州事変勃発、金輸出再禁止
1932年 五・一五事件
1936年 二・二六事件
1937年 区役所第一出張所が殿辻町(現殿辻一丁目)に移転
    日華事変勃発 
1940年 万代池公園が開園
1941年 太平洋戦争始まる(~1945年)
1943年 阿倍野区・東住吉区を分区。一部地域を西成区へ分離。粉浜を
    住吉区に編入。第二次住吉区発足。旧第一出張所庁舎を区役所
    とする。
1945年 GHQ財閥解体を指令
1946年 大阪商工会議所再発足、関西経済連合会、関西経済同友会発足
1947年 住吉税務署を設置(西成税務署より分離)
1948年 日本紡績協会設立
1949年 大阪など証券取引所再開
1958年 日本貿易振興会(ジェトロ、現日本貿易振興機構)発足
1960年 大阪市営地下鉄1号線(現御堂筋線)西田辺-あびこ間開通
1962年 南港通全通
1964年 あびこ筋全通、東京オリンピック開催
1970年 長居公園通全通、日本万国博覧会開幕
1971年 ニクソン・ショック、株式暴落、円変動相場制に移行
1972年 日本列島改造ブーム起こる
1973年 第一次オイルショック起こる
1974年 住之江区を分区。第三次住吉区が発足し、現行区域となる
1976年 住吉消防署が開庁(住之江消防署より分離)
    ロッキード事件発覚
1980年 南海本線玉出-大和川間高架工事完成
1982年 大阪市立住吉図書館が遠里小野一丁目に開館
1987年 大阪市営地下鉄御堂筋線がなかもずまで延伸。あびこ検車場
    廃止(跡地は我孫子南中学校・浅香中央公園など)
1988年 住吉郵便局が我孫子西二丁目に開局(住之江郵便局より分離)
2006年 阪和線美章園-杉本町間高架化工事完成
2008年 大阪市立住吉図書館が南住吉三丁目に移転開館
    住吉区役所が南三丁目に移転。新庁舎で業務開始
住吉村・住吉区の人口推移
 明治22年10/1 521戸 2,141人
 大正2年末  695戸 3,850人
 大正14年  1,948戸 10,085人  
 (国勢調査)
 *住吉村の人口

 昭和25年 73,348人
 昭和30年 100,135人 
 昭和35年 137,524人
 昭和40年 177,078人
 昭和45年 187,834人
 昭和50年 182,008人
 昭和55年 166,788人
 平成22年 155,660人
 *住吉区の人口
  

教 育
 住吉区には大学1校、高等学校7校、中等教育学校1校、中学校11校、
小学校16校、特別支援学校1校、専修学校1校、幼稚園15園があります。