民間教育施設の歴史

 

空海の綜芸種智院・・・わが国初の庶民にも門戸を開く 空海設立の綜芸種智院

 弘法大師空海といえば、一般には当然のごとく宗教者というイメージが強い。しかし、空海は科学者であり、土木関係の技術の分野で先覚的な業績を残した人物であり、「綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)」を開設した優れた教育者でもありました。
 空海が天長5年(829年)、藤原三守から譲り受けた京都の左京・九条の邸宅に設立した私立学校、綜芸種智院は地位の上下、貴賎の別に関係なく、向学心を抱くあらゆる人々に開かれた学校でした。いわば、わが国初の庶民にも門戸を開いた民間教育機関です。
 当時のわが国の教育体制をみると、公的教育機関は中央、地方いずれも官吏の養成を主目的とし、入学の有資格者は中央の大学が五位以上の貴族の子弟、地方の国学は郡司以上の子弟と定められていました。

学問芸術を総合的に教える全人教育目指した空海

 空海が綜芸種智院において理想としたのは、あらゆる学問芸術を総合的に教える全人教育でした。さらに空海は望ましい教育の条件として、教育環境の整備、資質よい教師陣の組織、教師・子弟双方の生活を保障する完全給費制などを挙げ、その実現に努めています。これほどの明確な教育理念を持ち、しかも一般庶民に開放された私立の学校は、その当時の世界を見渡しても、恐らく他に類例がないのではないでしょうか。

寺院などの民間教育により地方にも文化が伝播

 このような前史を持つわが国の民間教育は、その後、紆余曲折はあったものの、途切れることなく伝統が受け継がれていきました。民間教育の初級教科書ともいうべき『庭訓往来』が南北朝時代~室町時代初期に作られて流布したことはよく知られていますし、同じ時期、寺院などが民間教育の機能を果たすことによって、文化は地方にも広く伝播することになりました。
 戦国時代中期から江戸時代初期にかけ、相次いでやってきた南蛮人が、日本人の知的レベルに揃って驚嘆したというのは、大いに誇れることではないでしょうか。

庶民層の知識・道徳を育んだ全国1万を数えた寺子屋

 民間教育の興隆という面からみれば、何といっても注目すべきは江戸時代です。そして、その両翼を担ったのは、「寺子屋」および「私塾」です。寺子屋、私塾の総数は公立の学校である諸藩の藩校よりはるかに多く、その分布も全国にわたっていました。
 江戸時代は長い平和の下、町人層の社会的進出が目覚しく、また農村も商業化の波にあらわれて、文字を知ることが庶民の日常生活に欠かせなくなってきました。寺小屋はそんな時代的要求に基づいて自然発生的に開設されたもので、幕末には江戸だけで1000余り、全国だとおよそ10,000の寺子屋が数えられたといいます。
 寺子屋での授業は「習字」と「読書」が中心でしたが、「手習い読む」ことを通し、庶民が社会生活を営んでいくうえで必要な知識や道徳も、自ずから習得できるしかけになっていたということも、決して見落としてはならない点です。寺子屋は当時の世界でも最も完成度の高い民間の初等教育機関だったといえます。

商人塾「懐徳堂」
 懐徳堂の活動の歴史は①江戸時代の懐徳堂(1724~1869年)②重建(ちょうけん)懐徳堂(1916~45年)③戦後の懐徳堂の3期に分けられます。

<江戸時代の懐徳堂>

1724年、豪商5人の出資で商人の学塾「懐徳堂」設立

 
 寺子屋の隆盛が時代を被っていた江戸時代。日本にまだ組織的・体系的な「学校」が少なかったころ、大坂では五井持軒(ごいじけん)の漢学塾や平野郷の含翠堂(がんすいどう)など、好学と自治の風を伝える学校が存在し、他とは違う大坂の学問的基盤を形成していました。
 こうした前史を受け、江戸時代後期、現在の大阪市の中心部に大坂商人たちがユニークな学問所を設立しました。「懐徳堂(かいとくどう)」です。享保9年(1724年)、大坂の豪商たち、三星屋武右衛門・富永芳春(道明寺屋吉左右衛門)・舟橋屋四郎右衛門・備前屋吉兵衛・鴻池又四郎の「五同志」と称される5人が出資し、三宅石庵を学主に迎えて、船場の尼ヶ崎町一丁目(現在の大阪市中央区今橋四丁目)に設立したのが懐徳堂でした。

身分制に捉われない、進取の気風に富んだ懐徳堂

 懐徳堂は五同志を中心とする同志会の醵金やその運用益によって経営されました。また、学則に相当する定書(さだめがき)・定約(ていやく)類からは学費・聴講・席次などについて、身分制の当時としてはかなり自由な精神で臨んでいたことが分かります。受講生の謝礼(受講料)は五節句ごとに銀一匁(もんめ)または二匁ずつ、また貧苦の者は「紙一折、筆一対」でもよいという緩やかなものでした。学びたい者は、商人はじめ身分は問わず、受講料も負担できる範囲で収めればいいという、進取の気風に富んだ、極めて幅広い住民に開かれた学塾だったことが分かります。

貴賎貧富を問わず、自律・自助の精神目指す

 懐徳堂教育のあり方を示す代表的な定書「宝暦八年(1758年)定書」には「書生の交わりは、貴賎貧富を論ぜず、同輩と為すべき事」という著名な規定が記されています。総じて、学校側からの高圧的な規定はなく、学生相互の自律・自助を勧める内容となっています。士農工商の身分制社会が厳然としてあった時代に、実に素晴らしい精神で運営されていたのです。

将軍吉宗から公認され、学校敷地拝領し半官半民へ

 享保11年(1726年)、八代将軍・徳川吉宗から公認され官許学問所となり、間口十一間(約20㍍)、奥行二十間(約36㍍)の学校敷地を拝領、学舎の規模は拡大しました。ただ、大坂の5人の有力商人「五同志」を中心とする運営はその後も懐徳堂の基本となり、いわば半官半民の体制が継続されることになりました。
 明治政府によって旧幕府から受けていた諸役免除などの特権を廃止され、明治2年(1869年)に懐徳堂はいったん廃校となりました。

中井竹山らの時代に「懐徳堂」の名が全国区に

 
 こんな懐徳堂も、三宅石庵が学主だった初期には朱子学・陽明学などを交えた雑駁(ざっぱく)が学風で”鵺(ぬえ)学問”とも批判されました。しかし、元文4年(1739年)に五井蘭洲が復帰してより以降、正統な朱子学を標榜して荻生徂徠の学派を排撃し、その徂徠学批判は中井竹山らの時代に頂点を迎えました。折からの「寛政異学の禁」という日本史的状況とも相まって懐徳堂の名を全国に知らしめました。

知のネットワークとなり数多くの逸材を輩出

 懐徳堂はこの時代、知のネットワークの拠点でした。幕末期~明治期にかけて日本を動かしていった数多くの人材を輩出した、大阪市の「適々塾」、山口県萩市の「松下村塾」などのように、書き出したらきりがないほどです。まず大阪ならではの、富永仲基、山片幡桃、草間直方ら特異な町人学者はじめ、佐藤一斎、大塩平八郎、上田秋成、頼春水・頼山陽の父子、柴野栗山、麻田剛立ら。佐藤一斎の膝下から育った弟子に山田方谷、佐久間象山、渡辺崋山、横井小南らがいます。 

<重建懐徳堂>

1916年、重建懐徳堂として再建 庶民教育に専門研究も

 懐徳堂の復興を祈念していた大阪朝日新聞社の主筆だった西村天囚が大阪の財界や政界に働きかけて大正5年(1916年)再建されたのが重建懐徳堂です。運営は一般からの寄付や行政からの補助などに依存していました。
 学風は、初期の懐徳堂と同様、庶民教育を重視していましたが、京都帝国大学の内藤湖南教授らを顧問として専門性の高い研究活動も行っていました。
 ただ、専門学校令に基づく専門学校としての認可申請はしていませんでした。しかし、長く帝国大学が設置されなかった大阪において、重建懐徳堂は事実上、唯一の文科大学としての機能を担っていたとされています。

<戦後の懐徳堂>

戦後は独立運営難で大阪大学・法文学部へ機能継承

 空襲により講堂を失った重建懐徳堂は罹災を免れた書庫内などで、講義を継続していましたが、戦後の混乱期に独立した運営を続けることは困難になりました。そこで、折から新制大学としての大阪大学に法文学部が設置されることになり、財団法人懐徳堂記念会と大阪大学との間で協定が結ばれ、重建懐徳堂の資料等と職員を大阪大学へ移管し、講義等も大阪大学へ継承されることになりました。

大きな功績残した私塾

入塾制限のない私塾の隆盛が江戸幕藩体制を揺るがす
 私塾は寺子屋の隆盛を追うように発展し、幕末の天保年間(1830~44年)ころからとみに増大しました。学力のレベルはむろん、寺子屋より高い。塾によって多少の違いはありますが、原則的に身分による入塾制限はありませんでした。むしろ塾を選ぶ自由は入門者の方にあり、彼らは期待が裏切られたり、もうこれ以上、学ぶことがないと見極めると、ためらわずに別の塾を目指しました。
 全国には数多くの私塾がありました。松下村塾(山口県萩市・吉田松陰)、適々塾(大阪市中央区・緒方洪庵)、改心楼(千葉県干潟市・大原幽学)、心学塾(京都府京都市・石田梅岩)、藤樹書院(滋賀県安曇川町・中江藤樹)、洗心洞(大阪市北区)、明道館(福井県福井市・橋本佐内)、拠遊館(石川県金沢市・上田作之丞)、山紫水明処(頼山陽)、青藍舎(茨城県水戸市・藤田東湖)、四時軒(熊本県熊本市・横井小南)、洋学塾(東京都中央区佐久間象山)、韮山塾(静岡県韮山町・江川英龍)、鈴屋塾(三重県松阪市・本居宣長)、節斎塾(奈良県五条市・森田節斎)など枚挙にいとまがありません。

”藩”意識から”国家”意識へ目覚めさせた私塾

 そのように塾の門戸が開放されており、全国を遊歴・遊学することが可能になった彼らは、”藩意識”から”国家意識”へと目覚めていきます。それがやがて、江戸幕藩体制を揺るがす一つの導火線となったのです。
 そうした一例として、現在の大阪市内で私塾「洗心洞」を開き、庶民と農民に目を向けた大塩平八郎の場合をみてみましょう。

私塾研究

①近代日本の人材づくり 緒方洪庵の私塾「適々塾」

 緒方洪庵が主宰した適々塾(以下、通称「適塾」)は、数多くの日本近代化の人材、逸材を輩出した義塾です。門下は3000人といわれましたが、中でも長与専斎、橋本左内、大村益次郎、福沢諭吉、佐野常民、高松凌雲、箕作秋坪(みつくりしゅうへい)などは有名です。緒方洪庵の適塾から出た人々は、それぞれ多方面に生きる場を求めましたが、共通していえることは、明治以後の日本近代化に大きく貢献したことです。
 適塾は現在、大阪市中央区の北浜三丁目に残っています。この一帯は今ではビルが林立しています。跡地は淀屋橋のすぐ近くで、ちょっと南に銅座跡が残っています。日本銀行の大阪支店もここに建てられました。豪商・淀屋の屋敷跡、銅座の跡の間に懐徳堂の跡があります。
 適塾の教育理念や運営など詳細については https://www.yulife.com 参照。

②救済の狼火上げた大塩平八郎の私塾「洗心洞」

 1837年、天保の乱を起こした大塩平八郎の私塾・洗心洞は、現在の大阪市北区新川町の造幣局員の官舎内にあります。「洗心洞跡」という碑が建っています。碑の説明板には「一身を犠牲にして、難民の救済と政治の覚醒を行おうとして、天保の最初の狼火(のろし)をあげた地である。大阪市がここに記念碑を建てられるに当たって、これを顕彰する」という意味合いの文が書かれています。

庶民と農民に目を向けた平八郎

 大塩平八郎は、見方によっては国家に対する反乱人です。その反乱人に、難民の救済と政治の覚醒を行おうとして…と、大塩が取った行動を真正面から受け止めている点が実に興味深いところです。この場所は大塩平八郎の役宅があったところです。彼は大坂東町奉行・天満組の与力でした。給与は200石です。世襲制のポストで、また異動もありません。生涯を天満与力として過ごしました。したがって、地域との結び付きが強く、地域の隅々まで知っていました。どこの誰が何をしているかも全部知り尽くしていました。市中の住人だけでなく、近郷の農民の生活にも深い関心を持っていました。

御用学問に飽き、実践哲学の陽明学に惹かれる

 大塩平八郎が洗心洞という家塾を開いたのは、まだ20代のときでした。学問好きだった彼は、ある頃から徳川幕府や日本の大名家が御用学問としている「朱子学」に疑問を持ち、いま生きている人間に役立つ真の学問はないかと探し回りました。その結果、王陽明が唱える「陽明学」に出会います。「学んだことは、そのまま実行されなければならない」という、実践哲学に大いに惹かれました。

天災にも「凶作は奸吏と奸商が起こす人災」

 そこで、陽明学を学ぶべき学説と確信した彼は「知行合一」の理念を打ち立て、現実に起こっている問題をテキストにしました。近郷の農村が凶作になると、「凶作は天災ではなく、人災だ。奸吏と奸商が起こす災害なのだ」といったのです。目を見張って、この説に耳を傾ける塾の弟子たちに、彼はこう説明しました。「普通に起こる災害は、規模の小さいものは、人間の傲慢さに対する天の戒めだ。大きな災害は、奸吏と奸商に猛省を促す天の警告なのだ。それが、いまの奸吏や奸商には分かっていない。いずれ厳しい天罰が下る」と。
 こういう激しい教えに対して、もちろん、本当かな?と疑問を抱く者もいました。その結果、塾を去る弟子もいました。逆に、大塩のそういう説に深く共鳴し、彼に世直しの期待を込めて入門してくる者もいました。そういう連中にとって、大塩平八郎は偶像であり、また平和な時代における英雄でもありました。
 天保の乱、大塩平八郎が起こしたこの乱は、こうした考え方に基づき実践されたものでした。

③商人の心を変えた石田梅岩の人の道「心学塾」

 石田梅岩は45歳のとき、借家の自宅で無料講座を開き、後に「石門心学」と呼ばれる思想を説きました。すなわち「学問とは、心を尽くし性を知る」こととして、心が自然と一体になり、秩序を形づくる性理の学と表現しています。したがって、梅岩自身は『性学』と表現していましたが、実際には梅岩の思想は、手島堵庵(とあん)ら門弟たちによって『心学』の呼称で普及しました。

商業の本質、商人の役割を明解に説き、篤い支持集める

 その思想の根底にあったのは宋学の流れを汲む天命論です。とくに「商業の本質は交換の仲介業であり、その重要性は他の職分に何ら劣るものではない」と商業、そしてこれに携わる商人の職分を明解に表現し、当時の商人の篤い支持を集めました。
ある夜の講座でこんなことを聞く聞き手がいました。「今の世の中では士農工商という身分制があって、商人は一番下に置かれています。なぜでしょうか?」「それは儒学に基づく考え方が、日本の社会を支配しているからです。私は士農工商というのはそれぞれ職業の区分であって、決して身分ではないと考えています。それぞれに役割分担があって商人には商人の役割があります」とし、そのうえで「商人は主人であるお客さんから給与を受け取ります。給与というのはほどほどの利益です。自分の働きに応じない給与を貪るのは、不当なものといえるでしょう。またお客さんは主人なのですから、家臣(=商人)の方は精一杯忠を尽くす気持ちを持たなければなりません。それは、いい品物を安く売るということです。悪い品物を高く売るのは、決して主人に対するいい家臣ではありません。私が言いたいのは、こういう考え方をすれば、商人ももっと自分の仕事に誇りを持っていいということになるのです」と結んだ。
 この考え方は、士農工商の末端に位置付けられて、卑屈になったり屈辱感を持っていた商人たちを多いに励ましました。商人たちだけではなく、商家で働く人たちをも励ましました。二十数年間も丁稚奉公から番頭に出世するまで、実際に商家出で働いてきた梅岩の体験の基づいている話だけに、説得力がありました。

同調者に渡辺崋山、横井小南、吉田松陰ら 大名家も

 石田梅岩を高く評価した人に渡辺崋山、横井小南、吉田松陰、熊沢蕃山がいます。場合によっては、二宮尊徳もそうだといえるかもしれません。彼に感心したのは町人だけでなく、大名もいました。奥州泉藩主の本多氏、加賀藩主・前田氏もそうでした。両家では家臣たちにも心学を学ばせました。

子弟を持たないはずの梅岩の弟子を称する多くの人も

 子弟の関係は持たないという原則を貫いた梅岩でしたが、「自分は梅岩先生の弟子だ」と称した人たちは沢山います。代表的な人は斎藤全門・全孝の父子、小森売布、手島堵庵、慈音尼、木村南冥、杉浦止斎・宗仲、富岡浄敬などが有名です。中でも手島堵庵は、やがて「道話」を始めて、中沢道二とともに、道話を通じて心学の普及に大きな功績を立てました。
 現在でもかなり影響力を持っている石田梅岩ですが、彼に関わる史跡は案外少ないのです。講義場所には、多少史跡が残っていますが、しかしだからといって、はっきりした場所は分かっていません。

④志士を導いた『日本外史』の頼山陽「山紫水明処」

 頼山陽は京都を愛し、鴨川の上流に架かる丸太町橋のすぐ北に「山紫水明処」と名付けた塾を営みました。そして、ここで亡くなりました。彼の影響は、必ずしもこの塾に通って学んだ若者だけではなく、彼の書いた「日本外史」という歴史書や数多い漢詩が口ずさまれることによって、その存在感を高めることになりました。したがって、頼山陽の弟子は、彼自身と面識はなくても、日本中にいたということです。

京都・円山公園の長楽寺にひとり眠る山陽

 頼山陽の墓は、彼が愛して住んだ京都の円山公園内の長楽寺にあります。だが、父春水とその妻しづ子ら一族らの墓は、広島市比治山(ひじやま)町の多聞院境内に並んでいます。頼山陽が死ぬまで住んでいた京都の山紫水明処の、山紫とはいうまでもなく東山の峰々を指し、水明とは直接には鴨川をいうのでしょうが、彼の頭の中では京都全体の水の清澄さを称えて表現していたのかも知れません。

成人後も自閉症に苦しみ廃嫡された山陽

 頼山陽は幼少時、癇癖で極度の内向的な性格でした。そのため、藩の学校に行くことを嫌がりました。「学校に行くといじめられる」からでした。そこで母のしづ子が、いたずらっ子たちに頼んだが、そういわれると逆にいじめたくなるのが彼らの心理です。そのため山陽(当時の名は久太郎)は学校に行かなくなりました。後述するように、父・春水の家系は学者でした。学者の家系の子が登校拒否症に陥ったのです。極端な自閉症でした。
 いつまで経っても山陽の自閉症が治らないので、父と母は相談して「嫁でも持たせたら少しは人間が変わるのではないか」との淡い期待を寄せ、山陽が20歳のとき、父の知人の15歳の娘を嫁にもらいました。ところが、この頃から
山陽は花街でプロの女性に接触することを覚え、家を空けたまま何日も帰ってこない。またある日、父の名代で葬式に行ったはずの山陽だったが、人がたくさん集まる晴れがましい席が苦手だった彼は、どこかに逐電してしまう。
 しかし、これは問題になりました。無届けで藩地をでてしまったからです。進退極まった父・春水は、遂に山陽を狂人として廃嫡しました。

座敷牢で書かれた名著「日本外史」の草稿

 「日本外史」の草稿は父・春水から廃嫡された、自閉症だった山陽(当時の久太郎)が、父に代わって”教育係”を務めた母しづ子が見守る中、出身地、広島市袋町の家の中に造られた座敷牢の中で書いたものです。社会と人間の関わりを考えるために、日本の歴史を整理し直したもので、志士の若者たちには”バイブル”的な書となりました。

生気を取り戻し座敷牢に入れた母の真意を悟る

 当初「座敷牢に入りなさい」などといわれ、山陽はさすがに驚きました。「何もかも座敷牢の中でするのです。面倒は私がみます」と。こうして山陽は新たに造られた座敷牢に入れられました。ところが、いったん中に入ると、山陽は今までにない、生気を発揮し始めました。しばらく経つと、みるみる山陽の様子が変わってきました。
 これを機に山陽は密かに母しづ子を尊敬し始めていました。つまり母ほど自分のことをよく知ってくれている存在はこの世にいないと。息子の苦しみを自分の苦しみとして考えるからこそ、こんな座敷牢に閉じ込めるという破天荒なことをしたのだ。それは決して憎しみではない、むしろ愛情の裏返しだということを座敷牢の中で山陽は悟ったのです。

別人に生まれ変わり学才・文才を発揮

 頼山陽は座敷牢の中に5年いました。そして、やっと幽閉を解かれました。座敷牢を出た山陽は別人に生まれ変わっていました。改めて勉強し直そうと考え、菅茶山(かんちゃざん)の廉塾(れんじゅく)へ行きました。息子を自分の思い通りに教育できなかった父・春水は、文化13年(1816年)の春、広島・袋町の家で亡くなりました。71歳でした。山陽が伸び伸びと自分の学才や文才を伸ばし始めたのは、あるいは父の死が彼の魂を解き放ったのかも知れません。ただ、山陽の廉塾通いは長続きしませんでした。理由はよく分かりませんが、血の気の多い山陽にはもの足りなかったのかも知れません。

「日本外史」や漢詩が志士たちのバイブルに

 山紫水明処があった地域は、すぐ脇が三本木の遊郭です。幕末時代、多くの志士が出入りしたところです。情報交換の場として活用されました。近くに木戸孝允や大久保利通の屋敷跡が残っています。山紫水明とはいいながら、案外、山陽の心の底には、こういう賑やかな町を好む気持ちが潜んでいたのかも知れません。
 山陽は次第に有名になっていきました。「日本外史」や山陽の作る漢詩は、志士たちのバイブルに変わっていきました。ただ、山陽自身は決して討幕論者ではありません。勤皇家だったことは事実ですが、幕府を倒せなどということは一度も言っていません。しかし、後になると藤田東湖たちの水戸学と合体し、志士たちは両手に山陽と藤田東湖の本を握り、共に討幕のテキストとして活用したのです。

実践家の息子・頼三樹三郎は安政の大獄の犠牲に

 
 頼山陽の、倒幕理論指導者とでもいうべき虚像の部分は、その後、彼の三男の頼三樹三郎(らいみきさぶろう)に引き継がれます。三樹三郎は幕末期の幕府にとって、三悪人の一人として徹底して、大老・井伊直弼に追い回されます。そして、橋本左内、吉田松陰らと同様、安政の大獄の犠牲者となりました。
 山陽は、安政の大獄にからみ召し出され、江戸に向かう直前の天保3年(1832年)、突然喀血して亡くなった。享年53歳。肺結核でした。

頼山陽は地元有数の学者の家系

 頼山陽の家は学者が多かった。父の春水、その弟の三男春風、そして四男きょう坪(へい)のすべてが学者です。そこで世間では、この三人を”三頼”と呼びました。このように学者が多く出たのは、三人の父親の頼惟清(らいただすが)の志によるものです。彼の家は現在も広島県竹原市竹原本町北に、県史跡として残されています。